訃報 ー どうしていいのかわからないこと【つれづれ】20190309
友人の訃報が飛び込んできた。自殺だそうだ。
つい先日、息子さんを突然死で亡くしたばかりだった彼だが、そのことも大きく影響しているだろうことは推測できる。
訃報に触れて自分の無力さを実感する。
友人やその親族に何もしてあげられることがない。きっとお悔やみの言葉など何をいっても虚しい。定型句など言われてもなんに足しにもならないだろう。それとも、こんなときだからこそ誰でもいいから言葉をかけてあげるべきなのか。
それにしても、人の死は、その人の命だけでなく、周囲の人との関係において、周囲の人の未来の関係性の一部を一緒に奪ってしまうものだと感じる。来年の何処かの飲み会やらで会えたかもしれないこと、そこで彼を中心に友達の友達と新しい関係を築けたのかもしれないこと。残された奥さんや子供達、年老いた両親、両親の親族、義理の両親、仕事仲間、趣味仲間、同級生、ご近所さん。彼との直接の関係者だけでなく、関係者どうしの未来の接点までも奪っていってしまう。
彼はきっと孤独だったのだろう。どうしようもなかったのだろう。誰にも相談できなかったのだろう。周囲もそれを受け止める余裕がなかったのだろう。どこにも拠り所をもてなかったのだろう。そのことに絶望してしまったのだろう。
彼の訃報に触れてふた通りのことを思う。
一つは、残されたものの気持ちを思い、自分は決してそんなことにならないようにしようと。もう一つは、自分もそうしてしまいたくなってしまわないか、あるいは周囲の誰かがその訃報に触れて、その道を選ぶことを選んでしまわないか。そうならないように、自分の行き止まりを逃れる術を持っているのか。話をする誰かが身近にいるのか。
私ができることは自分の周囲の誰かが同じように悩みの深淵に落ちてしまっているとき、せめて寄りかかれるように準備をしておけるようにすることだ。