半蔵門御散歩雑談/ODR Pickups

株式会社ODR Room Network

このブログは、株式会社ODR Room Networkのお客様へのWeekly reportに掲載されている内容をアーカイブしたものです。但し、一部の記事を除きます。ODRについての状況、国際会議の参加報告、ビジネスよもやま話、台湾たまにロードレーサーの話題など、半蔵門やたまプラーザ付近を歩きながら雑談するように。

【ODRピックアップ】20140131 これは"本物"の"模倣"品です

【ODRピックアップ】20140131 これは"本物"の"模倣"品です

 

 大手老舗デパートの催事場でニセモノが販売されたのは、「ついにきたか」感でいっぱいの事件でした。

 

インターネットで販売される場合は、品物がチェックできないので、さもありなんと思えましたが、商品の真贋を見極める目にかけてはプロ中のプロであろう老舗の百貨店で、おそらく実質的な責任は各出店店舗に任されているであろう催事場とはいえど、仕入れルートも含めて信用の置ける事業者がコピー品を販売してしまったことは、今後はそこまでチェックする動きに繋がるかもしれません。あるいは、消費税増税よりも、消費マインドに影響するのかもしれない。。。

 

http://bit.ly/1aMcdhZ

 

そうかと思えば、世界は広い!

以前お世話になった中安さん(現在、ベトナム在住)の記事で報告されるベトナムのニセモノ事情には、驚かされます。

http://diamond.jp/articles/-/47130

 

記事中で現地の人の話として取り上げられる会話。

 

「滅相もない。こっちは、本物の製品を見ながら、それとそっくりに作った正真正銘の本物さ。だからやっぱり、品がいいんだよ」

 

と驚くべき答が返ってきた。

 

じゃあ偽物というのは、何が違うのだろうと思って尋ねると、

 

「本物の製品をお手本にせずに作り、ロゴだけくっつけたもの」

 

だそうだ。「本物」と「偽物」の定義自体が、ここまで違うのかと驚いた。」

 

そっくりにつくった"正真正銘"の本物のいう言葉に、ふと感じたのは、子供の頃買ってもらえずに手に入らなかったおもちゃを粘土でそっくりに創ろうとしている記憶の中の自分でした。商売にしている限りにおいては、粘土少年の純粋さはありませんが、彼の答えには知的財産権という考えがない、しかし、無知ではなく寧ろ純粋さを感じ取ります。

 

しかしさらに。

 

上述の中安さんの同じ記事内に、自社の地図をコピーされて使われて、苦情を言いに行った際の相手の言い分は。。

 

「じゃあ、私たちは一から地図を作り直さなければならない。その費用はあなたが負担してくれるんですよね」

 

コピーしないから、その開発費用は貴方が負担しろと。是に至っては、もう視点が斬新すぎて、一瞬何がおかしいのかわかりませんでした。

 

 

そして。

 

ニューズウィーク日本版 ふるまいよしこ さんのブログ&コラム

 

「SHERLOCK シャーロック」ブームに思うこと

http://www.newsweekjapan.jp/column/furumai/2014/01/sherlock.php

 

「文化及び商業コンテンツの保護からすればもってのほかであることは知っている。それ(違法コピー)を手放しに褒めるつもりはない。」

 

と述べつつ、政治的、政策的な当局の規制により、法律の網の目をかいくぐって=違法コピーでしか入手できない作品のほうが多い場合、"キマリだから"と単純に言ってしまっていいかと思えます。これはもちろん中国のお話ですが。

 

さて。

 

知的財産権法。

 

「情報の模倣(ただ乗り)や利用を一定期間禁止することにより、情報を生み出そうとするものが過度に減少して一般公衆が不利益を被る事態を防ぐ」

 

ことが目的とされています。

 

もちろんこれはその通りだと思う。健全だと思う。情報を生み出そうとする立場なら。

 

でも。

 

ちょっとだけ思う。"一般公衆が不利益を被る事態"とは何かと。既にあるものを安価に利用してはいけないのかと?ベトナムに生まれたときから住んでいたらそう考えるのだろうか。中国に生まれたらそう思うのだろうか。

 

先行投資して情報を生み出し、それをみんなに供給する、ただし、続けてもっと役に立つ情報を生み出し続けるために、知的財産法で保護される。。。この考えの大本には、先行投資して。。という始まりがあります。ベトナムにも投資はあるでしょう。しかし知的財産は、英米日などでもあとから成立した考え方であるように、これからその道を歩むのか。教育する?

 

しかし。

 

最近思うのです。

 

考え方を教育しないで、あとから来た人々がどのような道を歩むのかを見てみたい。

 

あるいは、まったく新しい概念が生まれるかもしれませんもの。