【ODRピックアップ】20160330 結局トラウマはまた立ちふさがる
42年前の中学校の卒業式の日。
卒業証書を受け取り教室に戻ってクラスの行事を行なっている時に、各自が”クラス全員から自分宛”の200字原稿用紙1枚ずつのメッセージ手紙集を受け取りました。クラスメートの自分宛の手紙は嬉しいことや懐かしいこと一緒に頑張ったこと悔しかったことなどが文字通り心を込めて書いてあり、その場でニンマリと流し読みしていました。するとクラスの委員長(女子)が席にやってきて、
「あたしホントのこと書いちゃった。ごめんね」
と告げると仲間の所へ戻っていきました。
あわててそのコのメッセージを開きます。
「マンダイ君は、勉強も〜運動も〜クラスでも〜。。」と褒め言葉。しかし、後半に、「でもふざけすぎです。私とXXちゃんが意見を言った時、ふざけながらバカにしたこと、とても悔しかった。だからキライです。」
読み進めると、その”一緒だった”XXちゃんも同じ趣旨のことを書いています。そして、その友達の2〜3人がやはり同じことを書いてありました。
ショックでした。そんなに「キライ」と明言されることなど決してないと思っていたので、そのダメージはそのまま、実は今でも引きずっています。彼女たちには卒業以来あっていません。クラスの同窓会にも来ていなかったので、もう42年。彼女らは書いたことなど忘れているかもしれませんが、私は結局乗り越えられないままでした。一種のトラウマです。
この「マジメなことを言う人がいると、チャカし笑い者にする」クセは、実は暫く改善できませんでした。この理由はなんなのか。当時の感情は既に忘れてしまいましたが、年を重ねて推察するに、自分の中で、
「そのマジメな取り組みによって、全力を尽くした結果、失敗してしまうことにより、傷つくのを畏れる感情」
が根底にあるように思います。今でこそ、そうしたプレッシャーにも耐えられるようになり、仮に失敗しても、それを跳ね返したり、その時点で笑い飛ばして感情をいい意味でごまかしたりすることができるようになりましたが、若かりし頃の、無意識の自己防衛だったのではないかと思います。
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1994年。前職の大手IT企業で、開発部門時代から出し続けていた異動希望がかないました。念願の企画部門へ配属され、張り切って望んだ最初の社内ニュース原稿は、「フレックスタイムの導入」記事でした。意気込んで書いた原稿を上司に査閲してもらうために部長室へ。
「お!マンダイセンセイ!最初の原稿か?どれどれ。。。」と和やかに目を通し始めますが。。。数行も読まないうちに、顔色と目の色が変わり、凄い凄みのある眼で睨まれました。そして、「なんだ!これは!原始共産社会じゃあるまいし!!」と一喝。そのあとも、いろいろと言われているのですが、早口で低音で何を言われているか判らず。でも、兎に角、罵倒に近い怒りなのはわかります。同時に赤鉛筆で添削され、這々の体で逃げ帰りました。
顛末詳細はこちらに記載しています。
キツい事、辛い事、ホントの事を、言われると、心はダメージを受けます。中学校のアレ以来も、「マジメなことを言う人がいると、チャカし笑い者にする」ばかりだったのです。会社に入っても幸い厳しく言う上司に巡り会わなかったのでしょう。あるいは呆れられていたのかもしれませんが、真面目に真摯に正面から取組むことを避けて、逃げて来たのです。
企画部門の上司のXXXXが縮み上がるような剣幕の叱咤は、これまで逃げ回ってきた私を震え上がらせ、これを避けるには、逃げるのではなく乗り越えるしかありませんでした。
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打ち当たってズタボロになるのは辛い。でも、一度は乗り越えなければ、あとで、もっと大きな避けられない壁となって必ずやってきます。
乗り越えるまで。