【ODRピックアップ】20160713 「”ここ”ではない”どこか”」という罠
1 子供の頃
中学生の頃、とても厳しい部活動に所属していました。今では問題になりそうなトレーニングという名のいじめに近い”しごき”と呼ばれる”特別練習”。明け方、空にまだ星が出ている頃に部室に到着して掃除、星がでている夜道を帰る日々。お陰でいろいろなものーー体力や筋力、やり遂げる根性と喜び、そしてなによりも友人たちーーを得ることができたのは確かです。
高校時代は、部活にも所属しましたが、仲間と結成したロックバンドでの練習の日々。ライブ。こっそり呼び込んだ女性ボーカルを匿いながらの練習。結局バレてしまいましたが。
いずれの時代も、情熱に加えて、「”ここ”ではない”どこか”」にいきたいという根拠のない衝動がありました。この小さな田舎町だから不自由なんだ、都会にいけば素晴らしい生活が待っている、こんなくだらない学生生活なんか抜け出したい。。。行き先は漠然としていて、なにか具体的な目標や具体的な方策があるわけではなく、ただ単に、ここさえ抜け出せればいい!という衝動。。。今にして思えば、単なる現実逃避です。子供染みた配慮なき、現状否定による現実逃避。子供だからある意味許されていたかもしれません。
でも「”ここ”ではない”どこか”」という罠は、逃げた場所にもまたあります。
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2 とにかく否定する傾向
最近ずっとむずむずしています。
最近の私のソーシャルメディアのタイムラインが、世の中で起きたこと、ニュース、何かの結果、政治的行動、等々への批判、否定であふれてきているからです。大抵の否定は言われたら気持ちのいいものではありません。ディベート癖のついていない私などにとっては、意見の否定は人格の否定にも思えてしまい、これをやられようものなら、真っ向勝負以外の道はなく、浅い付き合いの友達などは1時間でいなくなってしまいそうです。その理由により、ある時期から私自身は極力そうした主張をソーシャルメディアでは表明しないようにしていますので、「むずむずしている」のは、誰かの意見に対する否定論調のこと。
- 例えば、アイドルが人気投票で2連覇すると、それはほんとうではない、外国の票は無効だ、2連覇するのはこのアイドル手法の終わり。。。等々と否定的批判が溢れ、
- ある政治的主張がなされると、陰謀論やその人物の生い立ちに根ざしたことだ、アメリカからの圧力だ、ひいては、その個人の手法の否定(政策ではなくその個人がダメだというのに等しい)といった批判がなされる。
- テロが起きれば、テロそのものへの非難に先だって、現政権の選挙活動を非難否定する。。。
3 むずむずの原因
むずむずの原因は、一つには、否定が否定だけで、何の案も示していないこと。もう一つは、例えば主張、政策を批判しないで、その発言者や首班の否定をしている。ならば、首班が変れば、同じ主張を指示するのでしょうか。三つ目は、上から目線の「みんなわかってないから仕方ないけど」的な口調、文体。最後のは気分的なものでもありますが、押さえた感情をひねくれた形で表現し、相手を怒らせて自分と同じレベルまで引き下げてこようという喧嘩手法かな。
現実逃避のための現状否定。評論のための現状否定。自分も昔そんな気分を経験していたのでよくわかります。いや判ると言うとまた憤慨されるかもしれませんが。
4 結論先行が有効なのはプレゼン手法として
企画を推進する際のプレゼンはビジネスに限らず周囲を動かし協力を仰ごうとした場合は重要です。プレゼン講座で教わった手法で代表的なのは、結論を先に、とか、理由を3つに絞る、とかがありますが、これって、思考過程にも適用してしまっているかも。家族と話している時指摘されました。
検討をしている筈なのに、先に結論(仮説という欺瞞)を設定し、仮説検証ではなく、「結論にあう答えを探してしまう」傾向。だから家族が口にする素朴な疑問という選択肢への糸を、「それはありえない」と潰してしまう。
「”ここ”ではない”どこか”」という罠は、ここにも顔を出す。
5 誰が言っているかじゃなくて、何を言っているか。反XXさんじゃなくて。
言っている内容ではなくて、言っている人の否定は、私が経験した訴訟での証人の証言全部を無効にしてしまう手法にも似ています。一つ一つの議論ではなく、「この人は信用できない」から、証言が正しくても取り上げないということにしてしまう。
だから、あらためて、人物名称レッテルによる否定ではなく、主張や話の中味を議論に載せて行くようにしたいものです。