【読書/映画感想】20170324 デボラ、眠っているのか?
細胞培養によって生まれるウォーカロンが人類にとってかわるのか?
このあとの世界を描く作品の一つ。
あらすじ
ハギリ博士は、路上で「デボラ、眠っているの?」という周囲には聞こえない問いかけを聞く。
それは、はるか昔に設計され構築されたコンピュータ、人工知能に仕込まれた「トランスファー」と呼ばれるウィルスのような電子的なモノ?プログラム?モジュール?
人工的な細胞が移植されることにより、人間でも電子的なウィルスの影響を受ける可能性が出て来てしまったので、長く眠っていた人工知能が再起動したことにより、コンピュータ同士の電子的な戦闘(?)が始まりそれに巻き込まれていくストーリー。
電子空間での死は?
人間は、肉体に限界がある。それが寿命となる。精神や思考がどうなるのかはわからない。だからこそ生きていることが大事である。地球資源には限りもある。生が大事だからそのために領土、領域や資源の取り合いになる。
電子空間では?領域はメモリやディスクの領域か?制限はあるとはいえ、クラウドととらえれば無限ともいえる。では死は?電源供給?システムダウン?物理的破壊でなければ、いくらでも復活可能だろう。代替部品でバックアップからリロード。死とはどういう概念になるのだろうか。
似たような映画で
映画「マトリックス」では、未来の戦いはコンピュータの仮想空間で行われ、そこでは人間は人間の形をして戦っていたが、よく考えれば仮想空間でわざわざ人間の形になる必要なんてない。そのシミュレーションにマシンパワーを使うなら、他の演算に使ったほうがいいに決まっている。というわけで、マシン内の戦いは視覚化されずに、ウォーカロンや人工細胞を移植した人間が、トランスファーに乗っ取られて、操られ、それはもっぱら物理的に相手を破壊したり、無力化したりすることになる。
何を以って人間?
細胞レベルで人工的に治療され、増殖もするようになったらそれは人間なのか?反対に人工細胞の比率が多くなったら人間でなくなるのか?でも、増殖した脳細胞でも人間とそれ以外の思考はどこか違うと描かれている。その違いこそが人間としての何かなのだろうか。それはなんなのだろう。
怒り?
確かに、ウォーカロンは怒ら無いようだ。
直感?
ピンチを脱したのはハギリ博士の直感的ひらめきだった。論理的に考えるということはある意味経験値や既存情報に頼ることになるから、初めてのケースでは策を見出せ無い。だからといって、非論理的に確率の低い:それはデータがないから確率を割り出せ無いのだが:方策を実行することもできないのだ。反対に、人間はそれができる。
つまりは
無謀ができる、そして結果としてそれが活路を見出すこともある、それこそが人間の証?だとすれば、なんと、自分は人間らしいではないか?
そして私の周囲も。
みんななんと人間らしい。