【読書/映画感想】20170406 私たちは生きているのか 著:森博嗣
一連のハギリ博士とウグイとウォ—カロンの未来シリーズ。
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あらすじ
逃げ出したウォーカロンが集まっているという情報をもとに、南アフリカの村を調査に訪れるハギリ博士とウグイら一行。村のリーダーに騙されバーチャル空間に取り残されてしまう。ネットワークからも隔離されデボラの助けも難しい。博士のひらめきにより、デボラがコンピュータ空間に現れ助け出された一行は、この村で行なわれていた犯罪を突き止める。
脳だけを卵形の容器に入れられて仮想空間に接続された村人は、生きていると言えるのか?いや、あるいは、今生きていると思っているのは、正しいのか?実はそのように記憶をインプットされているだけではないか?そんな筈はない?それはどういう根拠で?
肉体はなくても思考しているのであればそれは生きているのではないか?肉体がなければダメか?感情?思考?喜びと悲しみ?怒り?欲望?
それが生きていることの証?
生きていることの証はなにか?
人工知能デボラはいう。
「生きているから、自分は生きているのか?と問うのだ」と。
人工知能は、
「自分は生きているのか?という問いさえ持たない」
という。
この問いは、”寝たきりで生きる”ということへの答えとして今も現れる。「そうなってまで生きていたくない」という一般的な意見。繋がれてまで生きたくないという人は少なくはない。
そう。
生きるってなんだ?
自立して歩けることか?食べられることか?呼吸することか?誰かと話せることか?家族を持ち一緒に暮らすことか?子孫を残すことか?何かを成し遂げることか?
それらは、全て、満足感に繋がって行く。
歩く目的はどこかへいくこと。食べるのはエネルギーの補給。呼吸は酸素の供給。話すのは何かのためのコミュニケーション。家族を持ち暮らすのは子孫を守るため。それらを自分でやる満足感。もし満足感が自分でやることでなくても得られることが受け入れられるなら、小説の中のように、ロボットや周囲の様々な物理的なものを制御しながら成し遂げられるなら、それでも、生きていると言えるのかもしれない。それが生きていると定義されさえすればいいのだから。今は生理的にそれは違うと言っているだけなのかもしれない。
セコいのが人間か
壮大な人類の叡智と未来のドラマで人間の生とは?死とは?と考えさせてくれるのに、人間が起こす犯罪がセコくて。セコさこそが人間の証と思ってしまいそう。笑
脳を肉体から分離させ、装置経由でシステムに繋ぎ、現実かどうかもわからないほど精巧な仮想空間を駆使して、世界中の銀行から、計算誤差の100分の1円をチマチマと盗み出すシステムにする。。。
やっぱりセコすぎる。笑
秘書が欲しい
全編に渡って登場する女性のツンデレ風局員 ウグイさんが魅力的。こんな秘書がいたらいい。こういう欲望、要望こそが人間の証だと思う。
死にたくなるのが人間
電子的トランスファや造られたウォーカロンは、死にたいとは思わないだろう。逆説的に、”死にたい、憂鬱、寂しい、孤独”、こういった負の思考、行動、感情こそが人間の証だ。もっとこれらの感情を大切にしていってもいいのではないかと思うのだ。
醜さこそ人間だと認めるところから
騙しあい、貶し合い、足を引っ張り合い、そんな醜さこそ人間の人間たる所以か。そんなのはキライだとも自信を持って言えず、時になあなあで済まそうとするみっともない自分それもまた人間とごまかしたくなるのもまた人間か。