【半蔵門ビジネストーク】20170530 施してはいけないのか? 「マラケシュの声」エリアスカネッティ著作から【読書/映画感想】
出張で、いわゆる先進国以外にいくと、必ず物乞いをする人々に出会う、あるいは目にすることになります。
イスラエルでは、ビーチで座っていると、老女がヘブライ語、あるいはアラブ系の言葉でお金を入れろと帽子や袋を持って回ってきます。レストランにいると入り口から堂々とおもちゃを持った人が入ってきて、これを買ってくれと食事中でもはいってきます。
フィリピンでは、グリーンベルト付近の路上ですれ違う少女が花を買ってくれないかと持ちかけてきます。
インドでは渋滞で止まっている車の窓を叩きマネーと叫ぶ子供や子連れの婦人、アクロバットを見せる少女、無視していると中指を立てて悪態をついて去って行きました。靴磨きの少年がピカピカにしてあげると付いて回ってきます。埃まみれの道だから磨いてもすぐに埃まみれになるのに。
ガイドブックなどや現地の日本人に聞いてみると、物乞いにはお金をあげないでと言われることが多々あります。その理由は、
- 実は裏に元締めがいて物乞い本人にお金が渡らない
- 親が子供に稼がせている、虐待の一種
- 依存が強まり自立の気概をそぐ
- 万が一観光客がいなくなったとき稼ぐ手段がなくなる
- カモにされる、みんなが群がってくる
等々。。。
多くの人にそう言われたり、周囲に聞いてもそういう声が多いようで、そんな中で自分が施しをすると偽善とみられるかも?などのへたれな理由で、最近ではそういう行為をしていませんが、実は心の中では、してあげてもいいんじゃないかと思っていました。
例えば、元締めや親がいて、その満額が本人のものにならなくても、今おかれている環境下では少しは緩和されるだろうし、 そんなことくらいでは自立を云々どころかへこたれない逞しさを我々より持っているような気がしてならないのです。
「マラケシュの声」エリアスカネッティ著作の「中傷」という章があり、著者は、周囲から施しはしないように、彼らのためにならない、と言われていたにもかかわらず、むしろ馴染みができるくらいによく接していたと記しています。そして、かえって自分たちが彼らの懲罰を受けているようにもなると。
いつも、彼らに無視を決め込んだり、追い払ったりしても、いくら彼らのためにならないからといっても、それは彼らのその時点で選べる生きる手段であるのだとしたら、自分がそれ以外の何かを与えたりできず、貢献もできないのだとしたら、施しも選択肢として各自の感覚で、考えで、行動していいのではないかと思うのです。
公園の池に棲む鳥や魚に人間の餌を与えると生態系を壊す可能性がある「餌をあたえないで」とはちょっと違いますが、上述のような考えを持っていることをカミングアウトしておきます。