【読書/映画感想】20170821 全てが”F”になる
天才科学者 マガタ・シキ(14歳)による殺人事件から15年。
新たな展開。またも同じ妃真加島の研究所で殺人事件が起こる。しかも殺されたのは、マガタ・シキ本人と伯父。そして時を同じくしてシステムred magicが暴走し、外部への送信が遮断される。犀川と西之園はゼミの合宿で滞在中で、あわよくばマガタ・シキに会おうとしていたのだが、なんと死体との対面となった。しかし、なにかおかしいと感じた二人は、独自で調査を始めた。
時間軸としては、四季シリーズの夏編と秋編の間にはいるもので、秋編でキーの一つとなる「ブロック」はここでの証拠品の一つである。
新しい作品から読み始めたために、後の作品に出てくるキャラやツールが既に登場していることに驚く。まず、「デボラ」はここで既に開発されていた。ウォーカロンのシリーズ「デボラ眠っているのか」のタイトルにもなっているコンピュータ内のエージェントソフトウェア。まだここでは研究所内の有能な秘書兼オフィスマネージャーレベルだ。
OSの名称は、red magic。「魔法の色を知っているか」の、”赤い魔法”だ。
本書内で、犀川が言う「日本は流体社会だ」というのには同感だ。
仲間に入るときに、混ぜてくれという。ミックス。個人が仲間に入るのに、ミックス。それにもおそらくあまり違和感はないだろう。ミックスは流体を混ぜるときに使う。個人がリキッドで仲間に混ざる。それに対して欧米では、ジョインするという。あくまで個人はソリッドで、混ざるのではない。参加するのだ。
会社を離れるとミックスされていた自分がよくわかる。そして今はソリッドな自分がいろいろな流体にジョインできずにいることもよくわかる。人に会う時も、相手から、「ミックスしてこないのか?』と思われるとうまく繋がれないことがある。
現実は、「現実とはなにかを考えるときに現れる幻想」というのは、分かる気がするが、やはり物理的に触れ合っている(ように錯覚しているとしても)この今を現実と呼ぶのが安心する。この文章を打ち込むのにキーを叩くこれが現実。打ち込んだ文章が記録され、それが誰かにコンピュータのスクリーンを通じて読まれるのが現実。誰かに会いにいって一緒に食事をしながら、それを「読んでいますよ」といってもらえるのが現実。
その現実が脳の理解で触れている錯覚かもしれないという不安はいつまでもつきまとうが、それを忘れたがるのは何故なのか。考え始めることは、red magicが予期していないことなのか?red hatはreg magicのパロディなのか?
眠ることが快感なのは、生きていることが苦痛だからなのか?
わからないので、ひとまず眠ることにする。