【半蔵門ビジネストーク】20171031 アンチ終焉
昔からアンチはある。
例えば父親は、アンチ巨人だ。他の球団が好きなわけではない。ただアンチ巨人。巨人に文句をいう。
「ファンじゃないの?」
「いや、だめだ巨人は。」
しかし、見る試合は巨人戦オンリー。
巨人ファンじゃないの?
父親はアンチ大河ドラマでもある。
毎回見ている。非常に詳しいが、アンチ。「時代考証がダメだ」とか、「配役がダメだ」とか、いろいろ批判がつきない。「好きだね〜」というと、「いや!違う。この大河はダメだ」と言い張る。
大ファンにしか見えない。
報道にはアンチ要素が多い。
報道メディアは、監視機能を持つという。スポーツも、芸能も、政治も、国家もアンチの対象だ。力を持った組織や人に対してアンチが唱えられてばかり。結果や、芸や、政策やその成果ではなく、まずアンチありき。そういう風潮になってしまっている。長年かけて。
報道はアンチのほうが読まれ易い。主張を正面から読み解くには時間も知力もかかる。批判は簡単だ。つまみ上げてそこだけを批判すればいいのだ。
考えてみればわかるが、アンチということは、アンチXX。まずXXがあり、それに対するアンチ。反対の主張。アンチ単独では成り立たず、XXが消えればアンチも消える。反XXもそう。XXが消えれば、反も成り立たなくなる。
学校が、会社が、中央が、運営が、フロントが、営業が、広報が、技術が、企画が、XXがダメだからと、反XXの批判は誰でもできた。部分を捉えるから間違いも少ない、全体的なバランスもいらない。小さな解決は目指すが、全体値や将来の戦略的ではなくてもよかった。
アンチ最大の問題は、XXがないと存在できないこと。誰かの前に、なにかの前には存在できないこと。アンチが知的。それが戦後の長い間の日本社会だった。それが成功戦略だった。今だにそうだ。
さて、しかし。そろそろアンチはやめよう。終焉だ。
でも気をつけて。反アンチもだめだ。笑