【読書/映画感想】20171120 ペガサスの解は虚栄か?
ざっくりとあらすじ
”コーキョ”跡の地下深く隔離されて稼働するスーパーコンピュータ「ペガサス」が、
「人類を減らした方がよい」
という演算結果を出し、アウトプットは非公開にされた。オーロラとの情報交換を望んでいる。また生殖機能を持つウォーカロンがいるという情報で、ハギリ博士とアネバネとキガタはインドに飛んだ。
逃げ出した”子供が産める”機能を備えたウォーカロンは存在し、疑似受胎トリックではなく、もしかすると本当の子供が生まれているかもしれない。そして、ツェリン博士は機密データを息子に託しそれを売っていた疑いが出て来た。そして子供が生まれたことで大きな欲望が動き悲劇が起こる。
コンピュータが背伸びするか?
「人類が多すぎる」という演算結果は、論理的に考えれば出てくる答えの一つだろう。人工知能は決して人類を支配しようとは考えなくて、単に演算結果としてそれを出すだろう。
新しく政府の政策や判断にも関わる新進気鋭のコンピュータは先走った推論により間違いを犯した。一つの間違いは他の判断も間違っていた可能性に繋がる。若きペガサスは少し先走り自分を認めて欲しいと思ったのか?スーパーコンピュータがプライドとコンプレックスを持ったのか?
考えたくないことを人間は考えない
仮に人類が多すぎるという演算が正しいとすると、人間はその結果をどうするだろう?人口抑制のための政策をたてるだろうか?施策を実行するだろうか?それは殺人かもしれない。殺人を是とする政策はありえるのか?ありえない。人間はその演算を考えないためにアウトプットをしないことを選ぶだろう。
民主主義から真義主義
民主主義は多数決で多数決で決めたことがうまくいくとは限らない。また多くの間違いも起こる。真義主義では、正しいことを決め実行する。だから高度な演算、シミュレーションが可能はスーパーコンピュータ、人工知能が導きだす結果を使うことになる。しかし、それが正しいことをどう検証する?最後にはスーパーコンピュータを信じるしかない。結局そこへ落ち着くのか?信じることの重さ、難しさ。
私に関係する誰かの死
過去は思い出として残る。誰かの死はこれから先の私に影響を与えたかもしれない可能性を失わせる。其の意味で私の未来の一部をも奪ったことになる。私だけではなくその人に関係する人々の未来の一部を奪って行くのだ。
何が生の証なのか。
ラビーナはロボットを操り外界と接触しそれは楽しかったという。逃げ出したウォーカロンの何人かは、そのボディを捨てて仮想世界に暮らして満足している。生身の行動だけが生の証ではないのかもしれない。
子孫が生まれることで母は法を犯し自身を犠牲にして我が子を守ろうとする。細胞の入れ替えによって死なない体と命と引き換えに子供が生まれなくなるのと、子孫を残し伝え入れ替わるということが、どちらが生の証なのか。
何が生の証なのか。