【読書/映画感想】20180115 花のさくら通り ー 人は誰かに指摘されたくないのだ、それが正しいことであっても
業績悪化した広告制作会社が、シャッター通りになりかけた商店街に引っ越してくる。街の活性化に関わり、プライベートなことや、古いしがらみ、街の人々の思惑や想いに感動しならが、翻弄されながら、何かを掴んでいく。。。
「ユニバーサル広告社」として、沢村一樹主演、要潤、三宅裕司、和久井映見、片瀬那奈などの俳優陣でTV化されたが、7回で放送打ち切りになってしまった。面白かったのに。
人は誰かに指摘されたくないのだ、それが正しいことであっても
どうにも行き詰まって”ここは誰か外からの斬新な知恵を借りたい”と思っても、いざアイデアを提案されると、そしてそれが自分たちでも思いつけたなと思えるような案だとすると素直にきけない。
「どうしてこんなことをやっていないのでしょうか?」
なんて指摘されるとムカッと来てしまう。思いつけなかったのは事実なのに素直に聞けない。それは素直じゃないからなのだろうか。言い方が気に入らないからなのだろうか。
きっとみんなわかっている。それは内容や言い方ではない。そもそも人は誰かに指摘されたくないのだ。だからカチンとくる。そしてそれは健全だ。そこにカチンとこなくなったら、もう終わりだ。大いにカチンときていいのだ。
15分の遠さか15分の近さか
イベントが開かれる公園まで”15分もかかる”という意見は、15分の価値がそこにないからで、”15分でいけるなんて近い”という意見は、15分以上の価値を見いだしているからだ。だから距離がダメなんじゃなくて”提供する相手に対しての中味の価値”の問題なのだ。それは15時間だって同じこと。15時間だしても行く価値があるかどうか、あるとみなせるか、あると思わせられるかであって、距離の絶対値で物事がきまることはないのだ。
誰かを慰めたりしようとすると自分が嘘つきだと気がつく
うまくいかないことには勿論理由がある。それは本人のがんばりとは別のところにある場合も多い。大抵はそれぞれが頑張っているのにうまくいかない。そしてその「うまくいかない人」が、自分の身近な人間であればあるほどその原因となる指摘をし難い場合がある。その指摘はもしかすると「うまくいかない人」の心を折ってしまうかもしれない。立ち直れなくしてしまうかもしれない。そして「悪いのはキミじゃない環境だ」などと間違いではないが本質ではないことを伝えてしまう。ウソではないが本質を伝えない意味で自分が嘘つきだと気付く。同じように、子供に何かを伝えようとすると自分が嘘つきだと気がつく。
がんばれはある意味では無責任だ。
何をどう頑張るかを一緒に考えてやることが助けになる。ただしそのアイデアは本人が思いついたように演出してあげることができたらいい。「頑張れよ」はなんて冷たい、無責任な言葉なんだろう。
そして最後は突破力
民主主義は行き渡っている。民主主義をうまく運転すると異論や画期的な案、低迷打破できる案を封じ込めることもできる。現状を維持するために破壊や軋轢や和を乱そうとしなくなる。そういう集まりの中にいて、物事を進めるのは画期的なアイデアではなく、資金力、根回しかもしれない。でも、アイデアがよくても資金があっても、民主主義的”なあなあ”の多数決の突破する力、封じ込めを=この場合は「もう決をとります」という意見を言わせないセリフで無理矢理突破していく発言を続ける力、覚悟、勢い、根性がものを言う。
突破力を身につけたい。どうすればいいか。それはこれからの課題。。。だ。
(はてな1030記事)