【半蔵門ビジネス雑談】20180207 流儀として
もう2月も1週間過ぎた。新年が開けて1ヶ月経った。
毎年、年賀状を出している。それは、常識や習慣や礼儀からではなく、自分の流儀としてだ。もしかすると、年賀状を出さない人には返事を書くことで迷惑になっているかもしれない。書かなくてもウザがられているかも?でも、受け取っても気にしないでいてもらえるといい。ウザいと思わないでいてもらえると嬉しい。それは流儀として受け止めて、もらったほうの流儀として返事を出したり、出さなかったり、メールで出したり、SNSで返事をしてもらえればいいのだ。
最初に年賀状を出し始めたのは小学生の頃だったろうな。覚えていない。冬休みは短いので、出し損なうと、学校が始まって顔を会わせてしまい、出していないことに気まずい思いをしたものだ。
それは、確か、元旦に相手に到着するように出すことが礼儀で、その礼儀は常識で、そういう習慣として運営されているんだということを親や先生から”なんとなーく”教わった?示唆された?からだと思っている。
昔は、今のようにメールもなく、電話や携帯だってない時代、距離があれば気軽に会いにいくことだってひと仕事で、大きな決意がいたのだ。直接連絡をとるには、仕事を休んで、費用をかけて交通手段を使って、泊まりがけででかけるのが、ごく普通だった。
だから、頻繁には会えない。数年に一度しかあえないのが当たり前だった。
手紙?手紙だって、時間がかかる。書くのにも往復するのにも。それに知り合いの全員に手紙を書いているのは時間的にもムリだ。
しかし。
知り合いと繋がっていたいのは自然な気持ちだろう。会えなくても連絡はとっていたい。
今でこそメールで、SNSで近況は知れるが、それがないのなら。。。
季節の手紙というのは、そもそもが返事を期待しているものでもないのだ。近況を、季節の便りという返事のいらない言い訳に記して、自分を覚えていてもらいたいというお知らせ。暑中見舞い、寒中見舞、そして年賀状。
礼儀とか常識とか習慣などという義務感なしに、自分を覚えていてねというお知らせだ。今ではメールやSNSもあるから、それらを使うのもいい。手紙、ハガキ、年賀状という手段を使うのは、礼儀、常識、習慣ではなく、流儀なのだ。
来年もまた、流儀として年賀状を出す予定である。