【半蔵門ビジネス雑談】20180328 その設問自体が問われている
時々、質問される中にあるフレーズが気になる。
- 〜しては、ダメでしょうか?
- 〜するのは正解(正しい)でしょうか?
本来、行動は自分の意思だ。自分でそうしたい、そうすべきだと思ったこと、考えたことに対して行動をする。しかし、上の質問主は、その行動を、彼が(彼女が)してもいいかどうかの許可を求めている。してはダメと答えがあったら、やりたいこともやめるのだろうか?下の質問主は、その行動が正しいかどうか聞いている。そもそも正しいかどうかは、犯罪行為でもない限り、相対的なもので、質問者にとっては正しい結果でも、質問された人にとって正しくない、やってほしくないことなら、正しくないと答えるだろう。そうしたら、やめてしまうのか?
思えば、義務教育以前から、そういう教育をしてしまっているかもしれない。
- 〜しちゃダメだよ!
- それは間違っているよ!
小さいときから、親や先生から、そんな風にいわれ続ければ、何かをするときに、「これはしてもいいか」と、聞きたくなる。正しいかどうか聞いた方が怒られないし、よくできたねと喜んでくれるかもしれないと思ってしまうのだろう。
これらは学校への入学や企業への入社試験、あるいは資格試験などでも同じ傾向でおこなわれてきた。だから、教育もそのような方法で続いてきたのだ。
さて、昨年2017年度の共通一次試験でムーミン問題が話題となったのは記憶に新しい。
問題は、こうだ。
アニメの舞台と言語を結びつけろ。
タ.ムーミンのアニメ
チ. 小さなバイキングビッケのアニメ
A. いくらですか?(ノルウェー語)
B.いくらですか?(フィンランド語)
これらは、ノルウェー語やフィンランド語の言語問題ではなく地理問題だった。言葉には解説があり、正確な言葉をしらなくても、アニメの国籍を推測できれば答えられる問題だったという。思考方法としては、バイキング=ノルウェーという歴史的、地理的知識から、チ=Aができれば残りは決まってくる問題だった。あるいはムーミンの舞台が作者の出身地からフィンランドと推測できれば回答できる。
ところが、少々議論にもなった。ムーミンは作中で舞台を明示しておらず、フィンランドとは限らないという説が研究者から出てきたのだ。
この問題は、今回は論理的に回答を導き出し、回答1つの設定だが、記述式にして理由を書くようになれば、複数回答あるいは、完璧な回答はなしということにもありうるだろう。
もしかすると、これは日本式の回答1つ正解1つ方式の教育からの大きな変化のきっかけとして非常にいい先例になったといえないか?
1+1=?という回答1つではなく、◯⬜︎1=2の◯⬜︎に入るのは?
1+または2Xまたは3ー、2➗
4つの回答の可能性がある設問。このほうが実際の問題解決のイメージだ。
答えは一つなのか?
答えは複数あるんだ!
いや、もしかすると正しい答えはないのかもしれない。
さらには、仮にその時点での正しい答えだとしても、その答えが引き起こすかもしれない新たな課題があるだろう。それを考え続けていかなければならない時代になっているのだ。
そしてまたさらに考えを進めると、その設問自体は正しいのか?という設問にもいきつく。その設問の設定自体が問われている。