シェアだけならいらない【御散歩雑談】20200203
Twitterやその他のSNSを開くたび「あ〜あ」と思う。誰かの記事をシェアするだけの記事。それをまたシェアする記事。確かに、たくさんの人がシェアするのは注目度を示している。多くのシェアであれば多くの人の目に留まり、共有されるべき情報が共有されていいことではあるのだろう。でも、ちょっとうっとおしくもある。
忘れもしない小学4年生。
私は偏食が極端で給食のオカズにはほとんど食べられるものがなかった。カレーですら肉や玉ねぎが入っているのでスプーンでそれらをどかしてから汁だけを飲む。学校では給食を全部食べることを推奨していた。好き嫌いは認められず残すことは固く禁じられていた。そうはいっても、当時の私は、無理に食べることすらできなかった。無理に口に入れようものなら臭いで嘔吐いてしまうので噛まずに飲み込むこともできなかった。そこでどうしていたかというと、給食に出るパン=コッペパンを上下に割りそこに残すおかずを詰め込み、先生に許可を得る、
「先生、食べきれないのでパンを残していいですか?」
残しはダメだがパンはよかった。体の大きさに違いがあり、小さい方だった私は食べきれないことの免罪符を得ていた。
ある日、同じように残そうとすると、誰かがいった。
「先生、万代くんはおかずをパンに、はさんで残そうとしていました。ずるです」
かくして先生がやってきてパンを開く。そこには、一番嫌いなおかず、そぼろあんかけが詰まっていた。
残してはいけない!と言われ、パンに詰めたおかずとおなじおかずが再度盛りつけされ、食べられるまで帰さないと言い渡され、午後の授業の間もずっと給食を前に泣いていた。
帰る前の学級会(ホームルーム)でも同じ。学級会ではみんなが意見を出すことになっている。今日の反省や出来事、よかったことなど。誰かが発言した。
「万代くんのことなんですが、給食は栄養があるのだから食べないと」
これまでになく、みんなが活発に意見を出した。
「からだが小さいのだから大きくなれない」
「毒が入っているわけじゃない」
「私は食べた」
「毎日残していたのを見ていた」
「飲み込めばいい」
「私も我慢して食べている」
いつもなら意見なんてほとんど出ない学級会なのに、みんなここぞとばかりに意見を表明していた。先生も今日は活発な意見が出たよかった的な締めくくり。以前にも書いた経緯は以下。
しかもきわめつけは、自分の意見を言えない子が、
「XXくんと同じです」
という”意見”をいうまでに。
シェアだけかよ。
SNSのシェアってこれと同じだな。
最近ネット時代になって、Twitterやその他のSNSが活発だ。政治論議も沢山なされている。一つの批判が出る。国会の質疑の記事がでる。それを取り上げる。そして、その記事の引用やリツートやシェアが溢れる。それを見るたびに給食を残している自分を思い出す。みんなが、一つのテーマに賛成を表明する。責められる自分。もうわかった。もうわかったよ。言われなくてもわかってる。。。。
ニュースや事件への単なる引用紹介は何度もいらない。話題のニュースはPVが稼げるからなのかもしれないが、ニュースソースはもう出ているのだからそれをシェアすることはもういいよ。シェアしなくても目に留まるさ。
自分の意見発信のニュースを出そうよ。
これは自戒も込めて。