サービス社会の法則~イヤでもみんな繋がっていく
朝の急いでいる時間に、やたらと信号をゆっくりと渡るおねーさんがいる。何度かクラクションを鳴らしたのだが、こっちを見るでもなく、平然と渡る。ある日、歯医者にいくとそのおねーさんが受付をしていた。クラクションを鳴らしたのが私だとわかっているだろうか?まてよ。駐車場に停めた車を見られたら、わかってしまう。。。そうしたら、痛くされるのでは。。。名前を呼ばれる。。。「お大事に」と微笑んでくれた。ホッ。。。
つり革に掴まった満員電車で、やたらと自分の場所を確保しようとするおじさん(自分もおじさんだが)がいる。前後に十分なスペースを得るために、ちょっとでも触れてきた周囲の人々を、威嚇し、肩肘を張ってくる。対抗して、こちらも意固地になる。しかし、ちょっと待てよ。。。もしかして、先日訪問した会社の玄関で、皆から挨拶されていた人じゃないか?取引先の社長か?どうする?。。。
「米国はかつて工業国であったが、現在はサービス国家。したがって米国人は、さまざまな手段で常にお互いとつながっていることになり、それが皆ピリピリするようになった理由なのだ。」
らびっと速報:逆ギレして機外に緊急脱出した客室乗務員に判決下る
サービス産業に従事する人が多い社会では、コーヒーショップのレジにいた女性が、午後にはあなたの勤務するアパレル店の顧客になるかもしれず、通勤電車で、あなたに寄りかかってきた居眠りの男性は、今日訪問する新規顧客の担当者かもしれない。
田畑や山林で仕事をする農業や、工場で労働する人が多い産業構造の社会では、お互いの生産物を購入して消費、活用することがあったとしても、それは直接のやり取りではないだろう。接客された相手が、翌日、顧客として直接、自分の目の前に現れるという事は、頻繁ではないだろう。
生産者中心の社会では、寧ろ人とのふれあいに渇望し、ふれあうこと自体に喜びを感じていくことができると思うが、サービス産業中心の社会では、"さまざまな手段で常にお互いとつながっている"状態となり、逆に、触れ合わない状態に心地よさを感じてしまうのかもしれない。
メール、オンラインコミュニティでのふれ合いの活発化は、こうした社会状況とも関連しているのではないだろうか。
誰かと接する機会が多すぎる→気を使いすぎて心が疲れる→オンラインならまだ気が楽→メールやオンラインコミュニティ→しかし、やっぱり味気なくなる→直接会いたい、直接会うと安心する→しかし、増えすぎるとまた気を遣う。。。
この繰り返しは、繋がり方のバランスをとっていく標準的な方法だと思うが、どこかでバランスを崩してしまうと、逆ギレが起きたり、引き蘢りになったりするのだ。
その意味では、"逆ギレ乗務員が共感"を呼んでいるのは、"引き蘢る"よりもいい傾向ではないかと思うのだ。