学び問い続けること【御散歩雑談】20201014
数年前から学士入学した大学で学び続けていたが、コロナのこともあり、ついに続けられないと判断して退学した。4年生にはなった。しかし、情けないことだが、学び続けられなかった。卒業できなかった。改めて事実を認め自覚し受け入れるために公開する。
もっと早く若く体力も気力もあるううちに学べばよかったと後悔している。学ぶのは自分の問題だからいつでも始められるとよく言われている。そう思っていた。幻想をいだいていたが、実際は、気力、体力、時間がなくなり、やっぱりある程度は若くないと、続けられないというのが現実。続けられた人を尊敬する。
教育は、教えて育てると書く。または教わって育つ、か。いずれも、誰かに(教師に)教わって育ててもらう。受身的なイメージだ。学び舎は、学校だ。小学校、中学校、高等学校。教わって育ててもらう、あるいは育っていく。なぜか大学は大学校とはいわない。
大学は、教育の場面も多くあるが、本質は学問の場であるといわれるのを、聞いたことがある。いや何かの本で読んだのかも。本はかなりを処分してもいるので、どの本で読んだのかわからなくなってしまった。
学問の場。
教えて育てるに対して、学んで問う場か。自分でまたは教えてもらいながら学んで、問いを見つける。そして、その問いに対してまた学び答えをみつけ、また新たな問いをみつける。その繰り返しで、自分で学び成長していく。それが大学を大学足らしめる。大学校といわないのは、場所はどこでも学べるからか。学び方も学べる。そもそも、「校」で学ばなくてもいいのだ。
自発的に学ぶことは、きつい。自分を規律して継続することが必要で、壁にあたってもめげずに学び続けることができないと、学び続けられない。私は前述のように、50歳過ぎてから学士入学した大学の学びを続けられなくなり挫折した。
もしこれが教育されていたら継続できたかもしれない。受身的に教えてもらえるならば、続けられたのではないかと思う。とにかく通って、講義なりを聞いて理解し、試験に合格していくことはできるかもしれない。
もう一度書く。学問はきつい。学び続け問いをみつけまた学ぶのは、キッツイ!
もっと早く若く体力も気力もあるううちに学べばよかったと後悔している。思いがある人は、早めに学問したほうがいい。