”主義主張”があってこその「和を持って尊し」【半蔵門ビジネス雑談】20201124
昔こんな記事を書いた。
「和を持って尊しとなす」では国際社会で通用しない、自分のスタンス=宗教でも政治信条でもプリンシパルでもいい、それをはっきりした上での話し合いによるすり合わせでないと前に進まない、自分を押し殺してうまく行っても短期的、他の強い意見にまた流される、そうなると先日の意見はなんだったのかとなる。
あるFacebookグループで知り合った方が、
「理不尽なこと、納得いかないことなどに反論しない、できない人が多いのではないか、これからは反論力が必要だ」
と言っていた。
日本では裁判沙汰という言葉がある。
それは、「正義がどこにあろうと話し合いで解決できないときに裁判に訴える面倒な人」というニュアンスが込められていると私は思う。紛争解決に関わるシステムなどを扱って来てますますそう思う。
確かに聖徳太子の時代から日本人の気質あるいはDNAには、話し合いでまとめることが身についていたのだろう。それは自分の感覚でもそう感じる。主張を押し通していくより少し引いても話し合いで丸く収める方が心地よい気がする。
日本人の比較的多くが、それ(自分が引いても話し合いで解決)が日本人のよいところ、美徳と思っているのではないだろうか。
そう。
問題はそこなのだ。
今まさに行なっている話し合いは話し合いを気持ちよく収めるためのものではない。なんらかの目的があってその目的を達成するための最善の方法を見出すためのもの。話し合いは気持ち良い話し合いの終わりを求めているものではないはずだ。当然意見も食い違うことだってある。一つの意見を採用すれば潰れる意見も出てくる。話し合いで決定できなければ多数決にする。その手法が民主主義というやつ。満場一致なんて珍しい。あったらむしろ怖いくらいだ。あったとしても見かけ上の満場一致。満場一致を求めても、話し合いで決着させられたとしても、そこには必ず決まったことに対して後から潰して覆して自分のやり方を通そうとするやつもでてくる。それを前提の多数決。満場一致ができずだったからこそ、多数決で決まっても寝首をかかれないように慎重に厳しく油断なく隙なくやらなければならない。そういうことも含めて民主主義のいいところであろう。
あとでごちゃごちゃやるのは全体からすれば目的への遠回りに過ぎない。有限な時間も無駄にする。だからこそ、自分を引っ込めて話し合いを丸く収めるのではなく、自分の主張をしっかりと表明し、議論し、時には決裂し、反対の立場を明示して、そのグループに参加していくことが重要であり、むしろ義務ではないか。
どうしてこうなっているのか。前述の記事のように聖徳太子の時代から、17条の憲法にあらわれたように、和がなによりも大事だった日本人気質。宗教の教えより、施政者の命より、和が大事だった日本人気質。みんなそう考えている間柄ならそれでいい。しかし、他の考えの集団との議論、例えば諸外国との議論、交渉はそれではいけないはずだ。人類は一つだって?それはそうなれば理想だがそうなる前に自分が不利になるのに折れてはそれこそ手段に溺れて人類は一つが達成できないではないかい?
自己反省すると、これまで自分でも、「和を持って尊し」を実践しすぎた。つまり、話し合いの本来の目的を捨てて、和を目的としてしまってきた。やはり、土台には主義主張があるべきなのだ。どうあるべきか、どうすべきか。それを踏まえてのすり合わせの手段として「和を持って尊し」であるべきだ。宗教、主義主張だけでは、意見が揃わなければ戦いになるのは歴史が示す。そうなる前に和を導く。これはもしかすると日本人にしかできない技かもとも思う。
和を目指す。
しかし主義主張の土台は捨てない。
それを踏まえた日本人こそがThought Leaderになりうるのではないかと〆るのは、大きな買いかぶり?