喜嶋先生の静かな世界【読書/映画感想】20220530
おそらく著者:森博嗣氏の院生時代の体験を元に書かれている自伝的小説。学部生時代から修士、院生になる間に出会った師匠的研究者 喜嶋先生とのエピソードを通して、科学の民主主義的な魅力、研究生活の魅力に魅入られて、結婚、その後の助教授としての変化、後進の育成による研究活動から遠ざかるときの内面的、外面的要因や変化への対応。。。自分も体験したくなる。。。でももうできないことを再認識させられる。
いろいろ思いつき、いろいろ心に刺さる。
”心がこもった言葉”ってなんなのか?「あなたの言葉は心がこもってない」というのはよく聞く。でも、言葉は言葉だ。言葉の持つ意味とその一般的な共通理解で表現される意味、以上でも以下でもない。”心を込めて”も言葉の形は変わらない。言い方の問題?だとすると手紙、文章では表せない。そうなると、”心がこもった言葉”とは、抑揚、イントネーション、声の大きさ、などなど。。。を、変えて載せるしかないのではないか。だとすれば、論文には心のこもった論文はありえないし、アピールの上手い論文で内容が変わることもない、だからこそ、科学は、誰もが公平に評価できるのだろう。
固有名詞の多い論文は下品である、すなわち、その論拠を固有名詞の発言者の誰かやなにか、あるいは他の論文の作者の名前に委ねて、つまり他の論文等に論拠を委ねている割合が多いことになる。論拠が誰かの意見や誰かの存在に立脚する論文は、確かに、「下品」なのかもしれない。逆に固有名詞以外で知らない言葉がでてきたら、その論文はきっとあなたにとっても初めての分野なのだ。この意見、同意する。論文でなくても論拠が誰かの意見や指示の主張は私をキレさせてきた。
アウトプットは誰かの役に立つ可能性を秘めている。研究者は、論文をアウトプットする。自分の論文の内容が、誰かの研究に役立てばいい。または自分が忘れるかもしれないのでそのためでもいい。UNIXが普及し始めたころの名言を思い出す。「問題は誰かが一度だけ解決する」オープンソースのOSをエンジニアや研究者がよりよくして完成させていくためにプログラムを改善し、追加していく文化、それはひとつの研究分野に論文を積み重ね引用して新たな研究成果を積み上げているようなもの。そうして人類の叡智は連結し積み重なり新しい課題を発見しそれを解決していくものだ。
透明で無音の喜嶋先生の世界。でも、橋場くんが思いついたアイデアを共同で数時間連続して解いていく、いや解くというか新たな側面を発見し、新たな問題を提起していく場面の興奮、そして、喜嶋先生がいつのまにか、マドンナと結婚してたことを知った橋場くんが喜ぶ場面では、なんだか知らんが涙が溢れた。
どんなに望みが低くても結果はそれより低い。だから望みを下げて達成をしやすくしたつもりでも達成できない。望みは高くすることが必須ではないが、低くするのは無意味だ。
研究に入り込む喜嶋先生の静かな世界は、透明で無音なのだろう。ああ。うまく言えない。うまく言えないが、この文庫、お薦めしたい。