「500円でも恵んでもらえないか」とおじさんは言った【たまプラビジネス余談放談】20220615
※6月7日から文字サイズ拡大。
月曜の朝、車を出そうとしていたら、道路から庭に向かって誰かがヨタヨタと入ってきたのが視界の隅に入った。
近くにくると、痩せた初老の男性だった。黒いよれよれのバッグ一つ、サンダル、紺色のTシャツ、グレーのズボン、肩まで伸びた白髪の長髪、日焼けしている。同い年くらいかもしれない。
「すみません。歩いて旅をしています。お金がなくて、500円でも恵んでもらえないか」とそのおじさんは言った。
今時、この辺りで見かけることも少なくなった浮浪者、あるいは昔でいうならお乞食さんだろうか。ずっと以前、若い頃なら、追い払うか無視していた。”そういう人”は怠け者で、ダメなやつ、自業自得だと跳ね除けていたものだ。子供心には怖い人々だとも思っていた。近づくと殺されるぞ、誘拐されるぞ、売り飛ばされるぞなど、大人たちのおそらく子供を危険に合わせないための警告が、大人になっても脳内に刻まれていたからだろう。実際、寸借詐欺まがいも多いと聞く。
しかし、出張時、他国で多くのこういう人々を見かけてから考えを変えた。
自分が今、この立場でいられるのは、本当に自力か?いろいろな人の支援や温情があったからではないのか?この人々は助けてもらえないのか?助けるのは誰か?今まさに手を差し伸べるべきではないのか?本当に?助けるのは国?県?市?福祉制度?この人々にはまだその救いの手が来ないのか?自分たちは税金を納めているからその中から然るべきルートで手が差し伸べられるから何もしないでいいのか?それはいつだ?
そういう正論で、今目の前にきたこの人々を跳ね除けるのはいいのか?正しいかどうかじゃなくて、君として、自分としてそれでいいのか?
- イスラエルで食事中の店の中にまで入ってきて小さい人形を買ってくれとせがんだ老女、
- インドの渋滞の道路で車の外でダンスを披露し窓越しにお金をせびる少女、
- フィリピンで横断歩道でバラの花一輪を買ってくれと訴えた少年。
ある説では、こういう人々の背後には搾取組織がいて、恵んだ金銭の10分の1くらいしか渡らないらしい。だから恵むべきではない!というのにもそうかなと思う時期もあったが。
それでも、自己満足にすぎないかもしれないが、少しでも足しになれば、それは少しの救いになるのではないだろうか。当事者には、正論が足しになるはずもない。正しい道が彼らの前にできる前に日々の食事もとれなくなるか、もっと酷い境遇になり取り返しのつかない状態になることのほうが遥かに多いのではないかと想像する。
コロナ前のある冬の日、薄着で手ぶらで246号を一人歩くアジア人の青年に、声をかけてあげればよかったと今にして思う。お金で少しでも足しになれば気力を維持できるかもしれない。追い詰められてしまわずに済むかもしれない。
自分がそういう境遇だとしたら何が救いか、なにが嬉しいか。
抜本的な、大きなことをすぐにはできないし、正論を実現する動きにもできそうにない。そういう意見を述べることはできても、その結果が届くのはいつになるのか。今何もしないことの言い訳にすぎない。
おじさんに聞いた。
「どこまでいくの?」
(とにかく歩いて行く。海のほうにいこうと思っている。)
「まだ随分距離はあるよ」
(頑張って歩きます。)
「どこからきたの?」
(東京のほうからきたけれど迷子になっている気もする。)
と、話しながら道路のほうに誘導して、
「おじさん、今、これしかないや。」と1000円札を渡す。
(ありがたい。)
「頑張って気をつけて。」
(失礼します。)
と、おじさんは言って、海とは違う方向に歩いていった。あれ?やはり寸借詐欺?
まあいいか。