感情と論理、希望と現実【御散歩雑談】20221014
とかくこの世は課題が次から次へと起こってくる。そしてその課題への向き合い方は、感情の側面と論理の側面、希望的側面と現実的な面があり、これらは、同時に頭の中を駆け巡り混合されぐちゃぐちゃになってしまってどうすればいいかの判断を狂わせることもある。そんなことが起きた時には一度手をとめて頭を休めて、そしてもう一度課題の他側面を整理してみるのがいい。
あるお宅で父親が介護状態となり施設にはいることになった。最初は侃侃諤諤。どうするんだ?費用は?かわいそうだ、薄情だと思われたくない、でも面倒を実際に見られるのか?やれるところまでやってみる?誰が?それぞれの仕事はどうする?無理してでもやるべきだ、無理に始めて全員が潰れるまでやるのか、親を見捨てるのか、自分の体はどうする、自分の家族はどうする、やればどうにかなるはずだ、。。。感情と論理、希望と現実がごちゃまぜになって渦巻き、判断を鈍らせ、無謀な決断が起こることも少なくない。
介護に限らず、進学、転職、治療、。。。様々に、とりわけシリアスな場面での葛藤には、感情と論理、希望と現実が登場し、悩みがエネルギーを消耗させる。ドラマ「ガリレオ」の湯川准教授のように「それは論理的におかしい」と一刀両断できれば苦労はない。
しかし、決めなければならない前に進めなければならない場合、冷たいとか人情とかの前に、それぞれの悩みの要素が、「感情と論理、希望と現実」のどこに位置するのかを整理して理解して考えることはしてみても無駄にはならないのではないか。
例えば、
感情
- かわいそうだ、
- 親を見捨てるのか、
論理
- 面倒を実際に見続けられるのか?
- 無理に始めて全員が潰れるまでやるのか、
希望
- 薄情だと思われたくない、
- やれるところまでやってみよう
- 無理してでもやるべきだ、
- やればどうにかなるはずだ、
現実
- 費用は?
- 誰が?
- それぞれの仕事はどうする?
- 自分の体はどうする、
- 自分の家族はどうする、
こんな風に分類してみる。
それを組み立てる。
- 感情的にはこうだ、希望としてはこれだ、でも理屈で考えるとこうだし、現実にやろうとすればこうなる。。。
- しかしそれだと感情的にこうなる、では希望のここはあきらめよう、論理的にも変わる、現実の対策はこれならできる、
- そうなると感情的にはどうか、希望がここまではいけそうだ。。。
というように整理できてくるはずだ。
関わりのあるそれぞれが同じボードの上で感情に引っ張られるだけでなく、無理に走るのではなく、現実を無視するのではなく、解決策あるいは踏み出す一歩を導き出せるように見えてこないか。
きっと答えはない。
すぐにはでない。
悩みはそう簡単には片付かない。
進むしかない課題は悩ましい。