「反対する権利」に対して”反対する権利”【たまプラビジネス余談放談】 20230220
自由にモノがいえる素晴らしい日本という声があるが、そうだろうか、ますます言いにくくなっているんじゃないか。
実は言えてない
毎日ブログを上げているが、実は言いたいことはほぼ言えていない。以前は書いていたが反論や意見がくるとそれに反応しないと失礼かと思い反応するとそれにまた反応がきて所詮文字でのやりとりは丁寧に書かないとますますもつれるのでもつれがもつれを呼びどんどん面倒くさくなる。ある時から、特に時事ネタについては本音は書いていない。書けない。あたりさわりのない視点で当たり障りのないこと反論が出ないことだけを書いている。どんどんつまらなくなる。
ちゃんとしたことを書きたい
不正確なことは書きたくないし論理矛盾することも書きたくない。そんなこと書いたら恥ずかしいじゃないか。脊椎反射的にそういうことを書いているのを見るとみっともないと思うし、自分がそういうことを書いて人目に恥を晒してしまうのもいやだ。信じているからといって別の誰かの足を引っ張ることを書いているのを見るのも不快。
書けばいいじゃん、いいたいこと、自分のブログ、言論の自由だといわれるが、そういうのはのべつくまなしマスターベーションしまくっているようなもんじゃないかと思う。そう。はしたない。はしたないことはしたくない。
社会のせいか?
”言いにくくなっている”と社会のせいにしているが、結局決めているのは自分なので、社会のせいでもない。自分の判断。書かないと決めているのは自分だ。そうなると言ったもん勝ちなのか?小さい一言もそういう風潮を、世相を、世論を、雰囲気をつくるんじゃないだろうか。好きなように発信することでなんらかの社会を作る蝶の羽ばたきになっているとすれば、その羽ばたきがどんな社会を作るのかは意識したい。そうすると言いにくいことを言わない社会を作るのを自分は目指しているのか?そうじゃない。いうべきことは言ったほうがいい。きちんと議論したほうがいい。そう。だから足を引っ張るような、言葉尻で揶揄するような、そういうのだけがいやなんだよな。自分はこう思うのだ、という書き方がいい。
「反対する権利」に対して”反対する権利”が弱い
今の今まで世界中でそうでなかったことがここ数十年でそうであることが当然のように言われていることは、言われているだけで、今まで長い間そうでなかったことなのに、なぜそれが正しいのか、どうしても腑に落ちない。それに批判的な声も一定数ありそうなのに、そういった政治家が叩かれて選挙のために(それは政治信条を果たすための重要な手段なので)引っ込めてまた批判が言えなくなる。これが自由の社会なのか。マイノリティにも権利をはわかるが、それを否定する権利も権利じゃないの。ということではっきり言えない風潮に加担してしまった今日の記事。
やっぱ言いたこと言えてない。