愚痴を言う、愚痴を聞く【御散歩雑談】20230511
”愚痴を聞かされてまいった”、”愚痴を聞かされてこっちも暗くなる”
という「愚痴」を聞かされる。
こっちも萎える。愚痴のオーラが伝播する。しかしその聞いた愚痴を吐き出す先がない場合、その愚痴は最後に聞くことになった人に沈殿していく。そしてきっとそういう人はそのことを誰にも言わない。仮に言った場合でも愚痴にならないように、そう聞こえないようにアレンジして言う。
さて。
愚痴を言えるのは幸せなのか、愚痴を聞かされる相手になるほど相手から頼られているということだという言い方をする人もいる。愚痴すら言われないような関係は寂しいのか。
それにしても愚痴の最後の受け止め先になった人のストレスはどこにいくのか、どのように浄化されるのか、どのように昇華されるのか。
さらには、口頭で言われればまだ反論や説得、慰めることができるかもしれない。慰めることができないまでも、そのような形で表現できれば愚痴を吐き出すのと同じような効果をもたらすのではないか。ある種のストレスはそこで発散されうるだろう。
問題は昨今のネット経由のそれだ。文字の表現は言葉足らずで不完全であれこれ憶測する余地を抱え、時間があくと反論する機会も失う。愚痴の最終受け止め口になりやすい。ネットで愚痴を出力するのは、特に特定個人に向けるのはやめようと思っている。
だからこっちにも向けないでね。
といったら家族に「愚痴に対して解決策なんて求めてないからそんなに考えることないしw」と笑われたw そういうもんかい