お寺に行くお年頃/施餓鬼という法要【御散歩雑談】20231006
父が亡くなりお寺に関わる機会が増えている。
葬儀はもちろん、49日法要、新盆法要、そして今回は案内をいただき「新盆の方は参加してほしい」という「施餓鬼法要」。横浜でも何度か列席したことがあったが、”餓鬼の寂しい霊を慰めよう”というものだ。地方によって開催時期が異なると僧侶に聞いた。内容は、
1)お焚き上げ=古い塔婆やお札を燃やす、
2)お経と講話、
3)墓参り
の順で、新盆家族は参拝者やお墓から古い塔婆を集め、1)で燃やすお手伝い、具体的には火にくべたり、火が燃え広がったりしないように監視する役目だ。簡単な昼食をいただき、お経を聞き、講話を聞き、頼んであった塔婆を受け取って、お墓に備えお墓参りをするという行事。
塔婆料とお布施を渡して、住職や参列者と雑談。多分90歳くらいの男性は、「ここ毎年新盆だよ」という。一昨年息子さんを59歳で亡くし、昨年は奥様を亡くされた。68年連れ添ったというから90前後だろう。家の両親とも近い年齢。亡くなった息子さんも私と5歳違いだから同じような構成かもしれない。”一人になって寂しい”というので、そうですね、でも気を落とさず生きましょうと交わす。
気がつくと参列者は少し若い世代も含めて同世代が多いように思う。自分に当てはめると、自身の親が亡くなってその供養できているのだろうか。そうでなければ、お寺の行事に単独で参列することなどなかった。父が全て対応していたからだ。もうそうは行かないのだから、代わっていくことになるのは当然か。母も高齢で任せるには可哀想だ。
母曰く、「役員を引き受けると大変だから避けるようにね」と言われたが、檀家総代をはじめ、役員らしき人は、本堂に寄付の札がかかっているような人ばかり。”信心”深く多額の寄付をするほど信仰心が厚くなければ役員は回ってこない。”新人”に押し付ける文化ではないようだ。
講話では、
”AIの時代で、餓鬼の霊を供養するというのは非科学的と思う人もいる。しかしお経や信仰は、おそらく昔からのなんらかの真理の例え話で出来ていると考える。なんでもAIでできる時代だからこそ、信仰は人間にしかできなものの一つであろう。”
そんな主旨のお話にふむふむと頷くのは、私だけだったようだ。