【つれづれ】20161224 聖夜にせよなんにせよ
※宗教に真摯な方は読まないほうがいいかも。
20年程前、国外企業と仕事をする前は、自分は無宗教だと思っていました。いや、もちろんクリスマスには騒ぐし、お正月やお盆には実家で親に従っていろいろな行事にも加わりますが、それは宗教とは関係ないことで、日常生活の延長に過ぎないと認識していました。今もどこかではそういう感覚は残ってはいます。
1.メリークリスマスを送って失敗
文化の違う海外と深くビジネスをすることになったのはイスラエル。
彼らに関する話題は、パレスチナへの侵攻、テロ、ユダヤ教、モーゼ、十戒、ナチスによる迫害などの関連でニュースや書物でも耳に目にしていましたが、その程度。彼らの想いや考えには無頓着でありました。
その感覚でビジネスを始め、ごく普通に、こちらの感覚で、クリスマスにメールを送りました。
「メリークリスマス」
今でこそ分かりますが、まったくの無頓着。彼らがどう思うのかは考えもしませんでしたが、結果は、しばらく返信がこなくなってしまったのです。あまり親しくもなっていなかったので、彼らも困ったのだと思います。そこで初めて学びます。キリスト教が全員じゃないんだ、ユダヤ教とキリスト教は違うんだ。。。
クリスマスは、イエスキリストの生誕を祝うもの(誕生日ではなく降誕を記念する日というのが定説)。ユダヤ教徒にとっては、イエスキリストはユダヤ人の一人でちょっと違うことをやり始めた一種の変わり者的にも捉えられているのでしょう。
実際、映画「ダヴィンチコード」がヒットしたとき、どう思うかイスラエルで感想を聞いてみたところ、
「美しい映画だね」
との答え。この映画は、
「イエスキリストに子孫がいる」
という設定ですから、キリスト教徒の人にとっては、とんでもない映画で、友人の一人は
「観てはいけない」
映画と心に決めていたようです。
ユダヤ教徒の人にとっては、
「何をいまさら。彼は神ではなく普通の人だから、子孫だっているだろう」
であり、
「しかしあれだけ布教に成功したのだから、優秀なマーケッター(マ、マーケッター?!)ではあるな」
という感じ。
2.無宗教なんてあるのか?
彼らにとってみれば無宗教はありえないとよくいわれます。
日本人は、神徒じゃないのか?
仏教徒じゃないのか?
クリスマスを祝っているじゃないか?
と思われています。
多神教だ、とも。
一神教の彼らにしてみれば、多神教は古い過去の遺物として、一神教を説かれることもしばしば。以前は黙って聞いていましたが、最近は、
「我々は多くの神、八百万の神を信じているが、それは、神が我々が分かり易いように、その人や場面に応じて、様々な姿で現れるからだ」
という説明をすると、理解を示すことを発見したので、そのように説明しています。
3.聖夜にせよ何にせよ
休日に家にいると時々宗教の方が勧誘に見えます。みんな一生懸命。でも、実際にそれを信じて祈るだけでは物理的に救われることはなく、つまりは物理的な欲望の人の救いにはならず、「欲を捨てればいい」というのは寧ろ非人間的なことであり、自分で悟る以外にはうまくいくことは少ない。そうでなければ、きっと誰かの、勧誘した人のせいにしてしまいそうなので、丁重にお断り。
かわりに、「エルサレムにいったことがありますか?私はあそこで、3大宗教の全ての良さと軋轢を目にして今それを整理しているところです。」と話すと、みなさんお帰りになられます。(これは事実。)
思えば、幼稚園はカトリック系でした。大学もキリスト教系。でも、仕事ではイスラエル、今はイスラム系の人々と組織を運営したり、仏教徒と意見を交換したり、神徒の友人がいて、ヒンズーの人とも交流があり、全部に気を使うのは大変でもありますが、「違い」と「それらを認め合うこと」の大事さは、実感することができたと思っています。
違いがあるから別々に頑張れる。
今夜も、あの人はまだ仕事でがんばり、彼の人は温泉に一人旅、此方は友達とパーティーで、彼方はナシノツブて等々。違いを認め合う。
そういうわけで、一緒に居たい人々といられない聖夜でも、それはなんにせよ、短いネットのメッセージでも、気持ちは高ぶるのであります。