【つれづれ】20161107 ソーシャルメディアでグロいのを見たくない
ソーシャルメディアで、写真や記事に、グロい写真が飛び込んでくることがあります。
1.日本人からあまり出てこないのに
殆どが海外の友人たちのシェアしてくるもの。もちろん「グロい」そのものが目的ではなく、例えば、”惨状”を共有することで、”社会問題”を共有しようというのが主旨だと思いますが、日本ではまずやらないだろうというものでも、どんどんアップされ、シェアされ、記事をフォローしているといやでも目に入って来ます。そして、自分には耐性がないことに気がつきました。
友人でなければ、フォローをやめたり、非表示にしてしまいますが、情報交換している人たちにはそうはいきません。特定の個人ということでもなく、その国の人のある比率でそうした写真が表示されてくる。。。参ります。。
問題に向き合うことは重要で、私もそれを逃げることはしたくありませんが、グロい写真はちょっと。。特に人間のその姿は。
2.隠蔽体質?尊厳重視?
日本の悪い一面だ、という向きもあります。
クサいものに蓋の風潮がここにも?
いや。
そうは思いません。隠蔽とは意味の違うものです。それは人間の場合、グロくなってしまった自分の姿を見せたくないという意思もある筈だからです。
ある映画の1シーンで、主人公が射殺される瞬間をスクープした写真を、掲載するかどうかとスタッフが議論を交わすとき、「(射殺された)人間の尊厳を侮辱するのか」と怒号が飛びます。
射殺された彼が、見られたくないと思うか、いや寧ろみんなに見てもらってくれと思うのかは、誰も推し量ることはできませんので、結果、推測する側の”常識”に委ねられます。だから、日本では多分掲載しない方向になりそうです。
3.惨状を伝えたい
前掲したいくつかの国ではそうした類いの写真がソーシャルメディアにバンバンと掲載されてきます。
では、彼らは尊厳を無視しているのか?それも違いそうです。
寧ろ彼らは、
「この惨状を伝えるためなら、自分の無惨な姿を晒すこと等何するものぞ」
と思っているのだと推測します。
社会問題への関わりそのものに積極的かどうかという側面もあります。現状維持で十分だと思う人が多い安定社会になっているからなのか。あるいは、関われば社会は変わるという期待感を持っているからかもしれません。反対は、どうせ社会は変わらないというあきらめか。
4.これまで情報発信や主張が抑制されてきた社会だから?
そうした情報を遠慮なく発信してくる人の国は、宗教色が濃かったり、最近までの独裁国家だったり、インターネットの普及で初めてソーシャルメディア的なものに触れたりした環境下だともいえます。我々もそうだったように、黎明期には、相手のことを考えずになんでも発信し伝えることもあったように記憶しています。
そんな時期だからなのかもしれません。
5.控え目なのは情報共有への成熟度の現れなのか?
では、成熟してくればそうした情報の拡散も控えるようになるのでしょうか?
米国は日本よりも成熟していそうですが、射殺シーンなどが出回ります。あるいはそれは社会全体の成熟ではなく、抑圧された側からの叫びの面もあります。
清らかな青少年には見せたくないという立場もあり、清らかな青少年に現実を知らせる意味もあり。その社会の状況に応じてやはり事情や捉え方は違うでしょう。
国や文化は関係なく触れ合うソーシャルメディアでは避けて通れない情報軋轢。
見なければいけないのは分かっていますが。。。