半蔵門御散歩雑談/ODR Pickups

株式会社ODR Room Network

このブログは、株式会社ODR Room Networkのお客様へのWeekly reportに掲載されている内容をアーカイブしたものです。但し、一部の記事を除きます。ODRについての状況、国際会議の参加報告、ビジネスよもやま話、台湾たまにロードレーサーの話題など、半蔵門やたまプラーザ付近を歩きながら雑談するように。

「因果関係が確認できない」ので

「因果関係が確認できない」ので【たまプラビジネス余談放談】20211105

 

「因果関係が確認できない(のでこちらには問題ないでしょ?)」というフレーズ。「確認」とは、”確かに”、”そうだ”と”認められる”ことだ。

 

一番記憶に新しいのは、コロナ禍での報道だ。

「感染者数の増加」と、「各種イベントの開催、オリンピック開催、酒席宴席」の関連性。関連性は、はっきりとは確認できなかったようだ。でも、みんな薄々思ってはいた。その後、イベント開催の自粛やオリンピック反対の声、飲食業への要請などが立て続けに行われた。これら因果関係が確認できたのかは結局はっきりしていないように思うが、(確認はできなかったけど)「どうやら関係アリそうだ」というくらいの確証で、やはり”ある”ことになって様々な措置がとられている。「因果関係が確認できない(けれど実はあるかもしれない)」ので何の手も打たなかったとしたらということを想像すると恐ろしい結果ばかりが想像されてしまうが、反対に実は何ともなかったのでは?ということもあり得たのかなぁと、いまだに心の中での賛否は決着しない。

 

以前からよく聞いていたこの言葉。

例えば、イジメが原因と思われる生徒の自殺、学校側の調査結果の発表はこれだった。「イジメはあった、ただ、彼が命を絶ったこととの因果関係は確認できなかった。」報道での情報開示が完全に抜けなく行われていないかもしれないのでなんとも言えないが、イジメた生徒はいた。イジメられた側も苦しんでいた。しかし、両者の因果関係は確認できないという。因果関係があるかを確認するべきあるいはできるのは現場の先生であろうが、彼らは「イジメとは認識してない」または「子供同士の戯れ」みたいな表現で「因果関係の認識」を証言していないので、それはそうだろう、因果関係は認識されなかったとされたままだ。

 

プログラムのバグの原因がなかなか判明しない時こういう心境になった。

しまいには疑わしいところを全部書き換えてみたり。また、それで突然直ることがあったりして。これは実際には書き換えることによってメモリ内の配置が変わって原因となっていた箇所にアクセスしなくなって問題が起きなくなったりもしたものだ。メモリそのものが原因だったりしてね。因果関係がないように見えて実はあったというケース。この場合は結局因果関係は把握できないで終わる。

 

どうすればいいんだろうと考える。因果関係が確認できないという発表を真に受けるのは調べる方も待つ方も、「諦める、時間切れ、もういいや」と投げ捨てることなのだろう。そうはしたくはない。ではどーする?

「プログラム」はロジカルなので徹底的に調べればいい。それでも因果関係が見つからないとしたらそれはミステリーではなく単に調べが足りないだけだ。コードで書いたロジックだけ見ていて見つからないのならハードウェア的なメモリのエラーつまりメモリの故障の可能性もあるのでマシンを替えるかメモリを替えるか。見つからないのは調べが足りないだけだ。やめるのは諦めなのでその意味で謎は残らない。

「イジメ」は確かに後追いの調査は難しい面がある。加害者とされる子たち、その家族、被害者の家族、先生方、いずれも口にしないこともあるだろうが、それを追求して行くことで追い詰めてしまうこともあろう。そこまでやるべきなのかは私にはわからない。このケースは迷宮入りが多くなりそうだ、ただし、忘れてしまえば再発しそうだ。忘れないように記録記憶に留めていくしかないのかもしれない。同じケースで自分が当事者になったらどうしようというシミュレーションをし続けるしかないのかもしれない。これは答えを出しにくいのが本当のところだ。

直近の「パンデミック」の様々なトライはよく踏み込めたと関係者には伝えたい。何をやってもやらなかった方が良かったかもしれないと後付けで言われるが、影響の大きさの範囲や時間的な後遺症も含めてよく”決断”したものだ。そう決断だ。判断を超えていたと思う。

 

因果関係が認められないときどーする?

関係が認められないから何もしないでいることは避けなければならない。極端にリスクをゼロに持っていくことは副作用がある。その調整の落とし所をどこにするか。そして必ず経済的な被害、負担、後処理が伴う。

いくら書いても答えにまとめられないが、自分の場合、少なくとも誰かに考えを委ねるのではなく、自分の周囲でどうするかを考え共有していくこと、考えや対策を投げ出さないことだけは自分の範囲でやり続けようと考えている。

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