選択の自由/時間を使う自由【半蔵門ビジネス雑談】20181010
自由はいいなぁと思う。
思い立った好きな時に、一人でも誰かとでも好きなように、好きなルートを通って、好きな目的地に、好きな時間過ごす。好きな時に、好きなものを、好きなだけ飲んで食べて、好きなように時間を潰し、好きな時に帰って来て、好きな時に眠りにつく。
そして、こういう移動を伴う自由を実現するには、車がよい。自分で運転できればなおよい。だから、車には拘って、好きなスタイルの好きなコンセプトの好きなメーカーの好きな色の車を所有してきたのだ。
が。
その自由は、移動のために自分の時間を移動手段を動かすために使う自由だったことに気がついた。運転をしていれば運転以外はできない。道路以外の荒野を走ることは自由だが、実際には、整備された道路を移動せざるを得ない。渋滞も発生する。高速道路でも速度は100kmに制限されている。一般道なら60km程度だ。
新横浜から新大阪まで約500km。東名高速でも5時間以上かかる。
敷かれたレールの上を走る不自由。。。なんていう表現が昔からある。
軌道の上を走る不自由な人生の例えによく出てきた。しかし、実は、目的地が決まっていれば、渋滞はなく、速度も新幹線なら200km。2時間少しで新横浜から新大阪につく。車の移動の半分。しかも、移動の間、その時間を運転ではなく、休息でも、仕事でも、勉強でも、読書でも、友人との雑談でも、空想でも、食事でも、お酒を飲むことにも、自由な車の移動で失う運転時間中の不自由からは解放されるのだ。
渋滞はない。それによる遅延も、イライラも、目的地の予定に影響することもない。(事故はどんな移動手段でも起きうるのでそれについては語らない)
この考えは、自分の時間が残り少なくなってきたことにより出てきたものだ。若き頃に拘っていた自由は、決定の自由だった。年齢を重ねて理解したのは、決定を少し犠牲にしても、その間に自分が使える時間の貴重さだ。今にして思えば、決定の自由は少々子供っぽくもある。
時間を使う自由の貴重さをわかるのが少し遅すぎたかなと思うのだ。