少し変わった子あります 森博嗣 著【読書/映画感想】20200709
真賀田四季シリーズで有名な森博嗣氏の異色な作品。何が異色かというといつものSFぽくなくて、謎の食事処に通うエッセイ風の話。
主人公は、小山教授。
その店には毎回一緒に食事する女の子が出てくる。夜の蝶的な女性ではなく、黒いセーターに黒いジーンズだったりするむしろ地味な特徴のない女の子。そばに座って給仕してくれるわけでもないし、話も弾むわけではない。アフターがあるわけでもない。個人的な話は聞かない。色っぽい流れにもならない。むしろ女の子は例えばゴジラが出てくる夢の話をする。わけがわからない。
料理は絶品だが、店は名前もない。場所も毎回違う。一緒に食事する女の子も毎回違う。場所が毎回違うってピンとこないだろうが、つまり、電話すると予約が取れて、お迎えがきてくれる。いってみると、元料亭だったり、元画廊だったり、元小学校だったり、つまり非合法営業のようなものか。
主人公が店にいくきっかけは、この店を紹介してくれた荒木が行方不明になってしまったことだ。店にいけば消息を知ることができるかもしれないと考えたのだが、結局消息はわからず。しかし、自分が通うことになってしまう、ハマってしまったのだ。
食事をしながら、なにも話をしないで、考えることもある。
普通は、沈黙が怖い。なにか話していないと怖いのでみんな話を一生懸命するのだが、そんな必要はないことに気づく。話の大切さは、その言葉数の多さではないと気づく。それはでも、話せなかったことへの程の良い言い訳なのかもしれない。しかし、実際、話をしなくても、充実した食事を楽しめる。そんな時を過ごせないのは、焦っているからなのかもしれないと気がつく。
食べるとは、要は他の何かの命を奪って食べ生き延びることである。動物だって植物だってそうだ。本来は生き続けられたそのものを途中で殺して、引っこ抜いて、切り取って、自分の生存のために食べる。残酷だ。野蛮だ。だからこと、感謝せよと。感謝して、厳かに、静かに、行儀よく食する。それができることが人間であるということだ。それができなければ、動物が獲物を食らうのと変わらない。食べる顔は美しくいたい。その感謝や残酷さを理解しないで食べるからひん曲がったひどい顔になっている。餌としてモノを食べる顔は醜い。せめて、醜くないように食べられるようになりたい。人間になりたい。
何かになろうとして頑張ると、そのものになろうとして、止まっていることになってしまう。教授になりたいと思った時点で、他の可能性は捨て去られて、そこで自分は止まる。社長になりたいと思った時点で社長以外の可能性は排除されてしまう。つまり、自分の未来はそこで止まってしまうと考える。確かにそうだが、自分はそうならないようにと考えた時点で、実はこれもまた、未来はとまっているという自己矛盾を抱える。
小山教授は、この店を友人に紹介したいと思う。磯部教授に紹介しようと思うが、いつ紹介しようかと迷う。
最後の話で、食事をしていると、女の子が、最初に出てきた女の子と同じゴジラの夢の話をする。しかし、教授は初めてきくように面白がって聞いている。食事が終わって最後に女主人が教授を送り出す。
「磯部先生、今日はありがとうございました」
そう。
磯部教授は、この店を紹介してくれた小山教授が行方不明で、この店にくれば消息がわかるかもしれないと思ってきているのだ。しかし消息はわからないようだ。磯部は、また来ようかと迷っている。しかし、なんだか危険な感じがしている。
後からゾクッとする。