どちらにつくか?という問い自体、自分で考えていない証【半蔵門ビジネス雑談】20200817
どちら派?という論争は歴史を紐解くまでもなく昔から身近にある。
Mac派かWindows派か?Macが先行したWYSISWYG(What You See IS What You Get)ユーザーインターフェイスをWindowsがパクったとか、ビジネスアプリが多いWindowsが覇権を握ったからそちらが主流だとか、普及しすぎたからウィルスソフトのターゲットになったとか、Macはウィルスに強いとか、グラフィックはMacだとか、グラフィック以外はWindows優勢だとか。
今では、MacもWindowsも利用者にとっては両方が選択肢だ。広い意味では、使いやすさやニーズはシェアの多少で左右される部分もあるが、シェア争いは利用者が選択するときにはどちらが使いやすいか、自分のニーズにあっているかの次だ。
憲法9条維持派と改憲派。平和は9条によって守られてきた派と9条で国は守れない派。手をださなければ攻められない派と攻められたら無抵抗でいられないだろう派。攻められてからでは遅い。攻められないように防備を充実させる派と防備をすると攻められる、争いに向かってしまう派。米国の加護の下での平和維持派と自立した国家になるべきだ派。
攻撃されないまでも手薄な地域をなし崩しに乗っ取られることは防がなければならない。その場所への防備はするべきだし、被害がでるまでなにもできないのでは、手遅れになる。攻撃しようと思わせないことが最良の平和維持策だ。
原発か脱原発か?放射能汚染を未来に残すのか派、処理方法はいずれ出てくる派。エネルギーは火力でまかなえる派か、温暖化ガスをどーすんだ派か。地方の犠牲に成り立っているのはいかん派と地方はそれで財政が潤う派。再稼働は許さん派と再稼働をしながら考える派。経済と命とどちらが大事なんだ派と経済回さんと命にも関わる派。
火力を増やしすぎると温暖化に悪影響だ。将来の気候破壊に繋がるだろう。原発以外の方法が研究開発されるまでは、想定する危険に対処はして、再稼働して繋いでいくことだ。
どちらにつくか?という問い自体もう自分で考えていない証と思うのだ。単純化した2元論に乗っかってどっち?どっちと騒ぐのは自分で考えるのを無意識に放棄している。どの問題もそんな単純にならないことはわかっているだろうよ。
外出自粛かGo To トラベルか。旅行経済回すにはGo toだが、それで感染が広まったらどうする?我慢して政府支援で持ちこたえろ?政府支援は永遠に続けられないぞ。
キャンペーンは収束宣言ではない。出かける場合は、マスク、3密回避を徹底するのは鉄則。移動自体ではなく、マスク無し、3密が感染拡大行動なのは明白。空気感染ならもっと広まっている。自粛派は、トラベル派を批判する必要はなく、自分が自粛していても、トラベル派がやってくる場合もある。受け入れる方も、マスク、3密回避は変わらない。
防衛策の出発点は、自分が感染しないように、ではなく、自分は無症状感染しているかもしれないので、それを広めないように、から始まる。
自分はどちらか?ではなく、自分はどうするか?の視点。自分でとことん考えて決めていこうじゃないの。
緊急事態宣言がでないからではなく、解除されたからでもなく、自粛要請されたからではなく、それが解除されたからではなく、会食に誘われたからいくのではなく、送別会だからいかなければならないではなく、危険といわれるからいかないのではなく。考えよう。自分の論理で。自分はどうするかを。
送別会でも、送別会それ自体が参加する理由ではない。大切なあの人を心から送り出してあげたい。だから心からの「送別」は事情を話して、例えば電話でもできる。TV会議通話だってできる。
考えよう。
自分はどちらか?ではなく、自分はどうするか?を。