報・連・相 ルールへの過剰適合【たまプラビジネス余談放談】20220310
車中のラジオで、
「報・連・相は日本の特徴的な企業文化だが、それは日本のイノベーションを阻害している?」
というテーマで、座談会的な番組が流れていた。
日本では、報・連・相に縛られるあまり、それに囚われすぎて、そのルールに囚われすぎて、それにコストを取られすぎたり、または、もっと議論をしなければいけないことをする時間が創出できないのではないか。
という内容で始まった。これは、米国のジャーナリストの意見だったかな。
アメリカでは、
「そうしたルールを守るよりも成果をあげるためにどうするかが問われる」
という。極端に言えば、報連相をしなくても、単独で成果を上げられれば、あるいは、周囲を動かして結果が出せればいいと考える。ドラマなどを見ているとそのようなシーンがよくでてくる。なぜそこで相談しないのか、協力を仰がないのかと思うことがある。
アメリカはそもそも英国でのルール、伝統から抜け出した人々のフロンティアでもあるので、ルールを守ることに意義を感じない遺伝子かもしれないという極論も出ていた。
一方、日本の評論家は、
「日本独自のいいところの面もあり、そういう社会をあの手この手でどうにかしていくスキルは意味があることだ」と。
また、街のビジネスマンの声としては、「報連相をしておくことによって、万が一自分が体調などで穴を開けてしまっても組織としてどうにかカバーできるはずだ」と。
「アメリカがよくて日本ダメだ派」と「日本の伝統最高、アメリカ強引過ぎる派」との意見のぶつかり合いみたいなのは、単純すぎる。だからといってどちらもすばらしい、いいところを認め合って、のような折衷論派も気持ち悪い。もっと論理的に、冷静に。
ルールだから報連相をするのではなく、ビジネスを遂行するために必要だからだ。問題は”ルール”への「過剰適合」なのだ。
「報告」は、report to 上司などに報告する必要はある。結果や障害、問題、課題など適宜報告するだろう。定時報告などもある。上司も状況を把握して報告する義務がある。これは仕事、業務の一環だから、義務となっているはず。もし義務となっていないのならば、上司の指示=報告せよという指示の手落だ。報告は日米とも必須だろう。報告を怠るのはどちらでも怠慢となるはず。
「相談」は、必要があればするし、必要がなければしない。相談は、前例踏襲に流れやすいかもしれない。あるいは、前例のないことをやるためか。前例の成功が今回の成功につながるとは限らないが、前例を聞かないで失敗すれば、ほらみたことかと言われるかもしれない。日本はなぜ相談しなかったなどと”師匠”にいわれがちかもしれない。ドラマを見ているとアメリカでも言われているのを目にする。いずれにしても義務ではない。ルールだから相談するというというのはおかしい。
「連絡」は、CCみたいなものか。これは曲者。前述ビジネスマンの言う組織としてのセーフガードとして連絡して情報を共有しておくのは意味がある場合もある。ただ、連絡するというルールに囚われすぎて、CCを”関係あるかも”範囲に送りまくるのは、無差別に近くなり、結果的には消極的でも関わる人を無駄に増やし、さらに結果として組織全体の時間コストを使いまくり、スピードを低下させる。連絡を意味のあるものにするには、連絡ルールに過剰適合しないようにすることだ。
報連相は、定着したワードだが、それを前提に話を進めるのもまた、思考停止の一つ。
Whyx5を忘れずに。それはなぜ?それはなぜ?。。。と5回繰り返すと答えに近づくはずだ。