あったはずだ vs なかったと思う【御散歩雑談】20211019
事務所の引っ越し後日談。
引っ越しが完了した夜、大家さんから携帯着信。
「どうもお疲れ様でした。」と挨拶のあと、
「靴箱が設置してあったはずだが、持ち帰っていないか?」と大家さん。
靴箱?なかったと思います。記憶にない。持ち帰ってもいない。
「全部の部屋に自分で購入して設置しているのであったはずなんだが」
いやーなかった思います。
「あったはずだ」
では荷物の梱包を解いて調べてみてご連絡します。
自分としては”ほぼなかった”と確信している。もしあったとして、今は見当たらないのだからどこかに片付けてあるはずだ。ただし、片付ければ記憶の片隅にあるだろう。それが引っ越しででてこなかったということはなかったということを意味する。狭い部屋だ。また、処分をしたのならその記憶の断片があるはずだし、なんらかの痕跡などがあるはずだ。”はずだ”というのが落とし穴かもしれないがやはり”はずなのだ”。あくまで”はず”だが。
少しでもこの”はず”に信頼性をもたせるために裏付けを取ろう。
まず、引っ越しを行なった人に話を聞く。
「引っ越しをした際にそういうものがあったか?」
なかったはずだ。
というのが答えだった。それは私の記憶とも一致した。
もう一つは、当時の写真。引っ越しして配置した際、靴箱があったはずの玄関を写している写真が数枚あった。そこにはなにも写っていない。写す前に移動していないことを証明はできないが、少なくとも玄関にいくつかのモノ、観葉植物や自転車を設置をしたときにはもうない。写っていない。あった可能性は、この写真の前に移動したことだが、それらに関する記憶、記録はなかった。
こうしたことを、大家さんに説明。大家さんは、
「そこまで調べていただいたのならそうかもしれません。私がおいたと勘違いしているかもしれません。」と結論ずけた。
7年前のことでないものをないと証明するのは難しい。また、なかったものをあったはずだと証明も難しい。あったものをあったと証明するのも実はまた難しい。大家さんが自分で設置したものなので証人はいない。誰かに頼む意味はこの証拠保全?的意味合いもあるのだなと今にして思う。
こうして、あったはずだ vs なかったと思う論争は、なかったと思うに一応の軍配があがったのだった。