揶揄とマウンティング【御散歩雑談】20210825
SNSを覗くことが日課になって久しい。
誰かの書き込みを見るのは楽しみ。鋭い意見には感心し、悲しい知らせにはしんみりする。アホなジョークにはニンマリし、非道い体験には怒りも覚える。
これらは平坦な日常に、普段は触れ合えない遠方の知人や、ここだけでしか会話したことがない未知の知人、昨日も会話した近しい友人たちと、オンラインで「再会」して、より濃密な関係を再構築できる大切な時間である。
時間”であった”。
「であった」としたのは、ここのところ、不機嫌なテキストによく遭遇するからだ。それは、前述の”悲しい報告”や”酷い体験”ではなく、「揶揄」と「マウンティング」に遭遇するからである。
揶揄は特に政府や有名人へのそれ。施策そのものへの批判ではなくて、「朝礼暮改」や政策のある種筋の通った「矛盾」を取り上げて、馬鹿にした言葉を投げ掛ける。しかも、それだけで、揶揄しただけで、終わる。最近だとオリンピックの実施とその後の帰省への抑制ーー本来は、オリンピック批判と帰省抑制というのは分けて考える問題だと思うのだが、「オリンピックはいいのに帰省はダメなのか、そんな政府矛盾することを言うはダメだ、帰省しよう、その権利がある」的なーーそう言う点を挙げて揶揄するブログや、
こちらの書き込みからちょっとずれた観点でコメント、それは、そのずれた観点によって、こちらより上に立つ、先行している、優れている、よく知っていることを匂わせてきて、マウンティングをとってくる(ように感じてしまう)やつだ。これらの書き込みに触れると、心がざわっとして不快になるのだが、読み飛ばすこともできずによりじっくりと読んでしまい、心だけでなく皮膚感覚までもさらにざらざらとする。
昔は揶揄には揶揄で、マウンティングにはマウンティングで対抗するパワーがあったのだが、最近は大人になったので、さっさとフォローをやめてそういう書き込みが目に入らないようにしている。いやこれは年老いたのかもしれないが。